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※この物語は、1998年2月〜1999年3月の期間に発行された「かわら版京都」(京都府合唱連盟オリジナルのハーモニーに付録となった印刷物)に、合唱偉人伝として掲載したもので、日頃浅井先生から伺っていたお話を私なりにまとめたものです。事実関係に誤りがある部分があろうかと思いますがご了承ください。 ※2002年5月29日、京都エコーHomepage掲載のため、一部追記・改訂を加えました。 合唱団京都エコー副団長 足立充宏 |
| 昭和14(1939)年10月24日京都生まれ。血液型B型。蠍座。 3才より8才まで中国内蒙古自治区の開魯(かいろ)で育つ。いわゆる満州である。瀋陽から北西に200km程入った内陸部、その広大な大地は幼少期の彼の脳裏に焼付いた。彼の音楽を構築する雄大な世界観の原点はここにあると言えよう。 終戦で京都に引き揚げた彼は、郁文中学に進む。その3年生の時の、恩師急病のために代役として初めて指揮棒を握ることになり、これが今日までの47年間にわたる合唱指揮者生活の始まりとなるのである。(何も解らないままに振った曲は“埴生の宿”。4拍子の曲を3拍子の指揮で振り切ったという。おかしいと思いながらも、12拍に一度歌と合った瞬間がたまらなかったという。) |
| 堀川高校を経て同志社大学へ進学し法学部に在籍。在学中には、当時180
名の団員を抱える同志社グリークラブの指揮者として一時代を画し、同時にグリークラブ以外に5団体の指揮者としてその才能を開花させる。その一方、東映京都撮影所で美空ひばりや三波春夫をはじめ多くの歌手と共演している。もちろん声だけのことではあるが。また、三条京阪前にあったクラブ“ベラミ”では坂本九などのバックで歌ったりもしている。この時代に出会った本物の演歌歌手や一流ミュージシャンに多大な影響を受けた彼は、その音楽に対する感性に一層磨きをかけていった。
同志社グリー180 余名を率いた指揮者時代に彼は、グリーがより高い音楽を目指すために、外部からの指導者を迎えることを決意する。上京し叩いた門が今は亡き福永陽一郎氏であった。グリーの歴史に残る指揮者福永陽一郎であるが、当時の彼の決断が無ければ実現していなかったわけである。正確無比なプロの指揮は、感性で振る彼にとって衝撃的であった。指揮法はもとより、プロとして追及する迷いの無い音楽に触れた彼の音楽性は、京都エコーという自分の団を持ったことで更なる展開を迎えることとなる。福永陽一郎指揮、三浦洋一ピアノで東芝EMIから出された数々の合唱曲がある。その中に日本アカデミーの名を目にするが、実は浅井が練習指揮を務める合唱団京都エコーを中心にしたレコーディング用合唱団のことなのである。 しかしながら一方では、外部から指導者をというグリーの歴史を変える事態を快く思わないOBの方々も多く、またOB合唱団に属さず自団を作って活動する彼は、もちろん混声にし練習日もずらし反発する意志の全く無いことを表したつもりではあったのだが、一時的にOB組織から除外される結果を招いてしまう。 その彼が、1998年に同志社グリーを振ることになる。東西四連の合同も。彼が故福永氏を要請したように、現役メンバーが彼の指導を求めてきたのである。[1998年6月28日東西四大学演奏会/フェスティバルホール 「雪と花火」を同志社グリーで、「十の詩曲」を合同演奏で指揮をする。] |
| 1962年、同大学を卒業し工業用ゴムロールメーカーの(株)金陽社へ入社する。(2000年3月31日退職の日まで、その営業マンとして敏腕を奮っていたことを付け加えておく。)間もなく京都会館で、当時世界一と言う触れ込みの『インスブルック合唱団』を聴いた彼は、「これが世界一なら自分でも造れると思った」と言う。東山から京都の街を見下ろし「千年の古都・京都に世界一の合唱団を」の理想を掲げ『合唱団京都エコー』結成を決意したのはその年の12月であった。
「千年の古都・京都に世界一の合唱団を・・・」のくだりで始まる合唱団京都エコーの歴史。浅井敬壹の思いが実態となり活動を開始するのにさほど時間はかからなかった。同志社グリーの仲間に京都音大(現芸大)・京女大の女性が加わった13名の初練習は、1962年(昭和37年)12月14日、三条十字屋の2階。彼の社会人一年目の冬のことであった。正式な発足は 1963年1月8日 である。 |
| 世界一を目標とした合唱活動は、まず国内での高い評価を得ることから始まった。コンクールへの出場である。演奏会における独自の演奏スタイルを築くことよりも、まずは日本一の評価を得ること目指したのである。「10年で世界一に」と豪語して。その活動は確かに合唱界を震撼させるものであった。溢れんばかりの声量を駆使して表現されるいわゆる浅井節は、聴く者の心をつかみ体をも揺するほどであった。そのために彼自身も曲の本質を見極めるための努力を惜しまなかった。曲の舞台となった土地を尋ね、その場面を自分の目に焼き付けるために、仕事を終えてから夜行列車で全国を駆け巡るほどであった。その一方で常勝している合唱団の練習に素姓を隠して訪れるなど、コンクールに勝つ方策を得る努力も続けられた。念願の全国大会出場は結成8年目のことであった。 合唱団京都エコーが全日本合唱コンクール全国大会で一位金賞を受賞したのは、浅井敬壹が「世界一の合唱団を!」の理想を掲げ京都エコーを結成して13年目の秋であった。ブルックナーの『テ・デウム』を歌った1975年の神戸大会である。当時の審査員であった三善晃先生が洩らした言葉は《日本に、こんな合唱団があったとは・・・ 》であった。当時FMCが、松原混声が、そして神戸中央がと、横綱合唱団がひしめき合う中で。それこそ関西を勝ち上がることすら至難の時代での、13年目の日本一。他から見れば快挙と言えよう。が、10年で世界一を夢見たエコーには遅すぎた日本一であった。8年目にして全国大会へ出場し銀(4位)、翌年は関西で敗退、翌10年目は演奏会を選びコンクールへは出場せず。そして11年目全国大会へ出場するも銅(5位)、そして銅(7位)と続く。世界一どころか日本一が取れない。エコーに危機が訪れる。10年目を越えてから指揮者の指導性が問われるようになり、12年目の銅賞でそれはピークに達する。勝てないエコーは、勝てない指揮者につながった。創立以来の仲間が何人か去り、さらに幹部からも「総スカンを食った」と浅井は言う。「解散することも考えた」とも。 その翌年にドン底から一挙に頂点を極めることになろうとは、浅井自身も考え及ばなかったことであろう。エコーがそして浅井が一回目の脱皮をした。「勝たなくてはいけない」の呪縛がとけ、「持てる力を最大限に発揮する」合唱団に変貌した。そして銀(4位)金(2位)銀(4位)銀(5位)と歴史は積み重なる。二回目の脱皮の時が訪れたのはこの後であった。 皆川達夫先生の誘いで出演した「知られざる名曲をたずねて」コンサートであった。のど自慢の集まりであったエコーに、ノンビブラート唱法のルネッサンスものをリクエストされたのである。メンバーをセレクトしての挑戦、まさに賭けであった。結果はその年のコンクールで出た。1999年までの20年連続金賞の始まりとなる、ピツェッティの『ディエス・イーレ』での金賞(2位)受賞。1980年、創立18年目であった。 |
エコーが憧れ、目標とした合唱団に神戸中央がある。コンクールを前にして浅井は、その指揮者であった故中村仁策先生にこの曲を歌うことを告げている。当時のエピソードが、後の演奏会にメッセージとして中村先生ご本人から寄せられているので紹介する。
浅井が師と仰ぐ中村先生のこの愛情溢れる言葉から、浅井の本質を読み取ることができる。この時の一位は神戸中央であった。その楽譜は今も浅井の宝物である。 |
| 「あの指揮でよく歌えるな!」という声をときどき耳にする。確かに浅井敬壹の指揮と合唱とを冷静に重ねて見ると打点と歌の出だしが完全にずれている。しかし歌っている側には全く違和感が無い。それどころか見事に歌わされてしまう。感性を全身で表現しぶつけてくる浅井の指揮に歌う側も思わず心揺すられ、指揮者と歌い手の間に絶妙な“ため”が生まれる。ずれているように見える浅井独特のこの表現がいわゆる浅井節なのである。その浅井は、指揮者と合唱団の関係を次の様に考えている。1984年5月、ビール会社のCMに起用され、驚くほどのアップで載った新聞紙面で「歌い手はみんな歌おう歌おうと指揮者を押してくる。その時、百対一のコントロールではなく、一対一の線が百本ステージに集まっていると考える」と。これは浅井の率いる合唱団に限ったことではなく、客演で指揮する合唱団でもその関係を求めている。指揮者浅井の魅力の一端であろう。 「10年で世界一を」は果たせなかったものの、合唱団京都エコーは創立18年目の1980年から全国コンクールで金賞をとり続け、押しも押されもしない日本のトップクラスの合唱団として評価され、その指揮者である浅井は全国から引っ張りだことなる。コンクール審査、合唱指導、客演指揮と日曜日毎に跳びまわる日々が続く。サラリーマンをやりながらである。そのような中にあって、やはり世界を知りたい思いも膨らんでいく。 |
| 1988年京都エコー創立25年目の12月、東西ドイツの壁の残る最後の年末に、東ドイツ・ライプチッヒに浅井はいた。京都エコー100 余名を引き連れて。バッハゆかりの歴史と格式を誇る聖トーマス教会での演奏会は満席で始まった。しかし、教会内での演奏に対して拍手は贈らない慣習のため演奏は淡々と進む。終了後教会の外に出た団員を迎えたのは、帰ろうとしない客と拍手の嵐であった。氷点下の夜しかも野外ながら、そこでのアンコールは団員を上気させた。浅井は彼よりもはるかに大きいドイツ人に取り囲まれた。言葉の壁、そして世界を分ける本物の壁に阻まれた異国で浅井の音楽が受け入れられた。 年明けにはミュンヘンフィルの本拠地であるガシュタイク大ホールでの公演。(ミュンヘンフィルの本拠地で、2400名収容のシンフォニー専用ホール。その大きさゆえ、事前に契約のため訪れた際、現地の音楽エージェントから「このホールでの合唱コンサートは無謀」とも言われていた。)そこでも万雷の拍手と感動に包まれたものとなり、現地新聞からは「完璧なドイツ的様式の演奏」と絶賛された。 独自のルートで公演交渉した単独演奏会であり、世界的な順位評価の得られるものでは無かったが、合唱を通して世界を繋ぐことができるという手応えを感じた浅井にとっては、最高の評価を得ることに値した。 |
| 浅井は言葉を伝えることに執着する。言葉の発音やイントネーション、詩の持つ意味や情景、さらに喜怒哀楽をも歌の中で巧みに表現させる。浅井がこよなく愛する演歌さながらに。 日本語に限らず外国語においても同様にである。詩に託された多くの平和への祈りを伝えたい、そして合唱できる喜びと幸せを感じてもらいたいと浅井は指揮をする。 1999年11月21日、還暦を迎えた浅井は、広島でのコンクールでその思いを凝縮させ、結果、合唱団京都エコー20年連続金賞受賞を達成した。この偉業に対し、2000年1月27日京都府文化賞功労賞を合唱団京都エコーとして頂いた。元来個人の業績・功労に対して贈られる賞で、団体として、またアマチュアとして初の受賞であった。 |
| 2000年3月31日を持って(株)金陽社を定年退職し、4月1日から合唱指揮者一本の人生が始まった。この4月より全日本合唱連盟関西支部長に就任。2000年度の合唱コンクール全国大会での審査員。10月15日の京都コンサートホール開館5周年記念事業での、トーマス・シュメークナーのオルガン伴奏によるブルックナーの「テ・デウム」(世界初演)の指揮依頼を受けるなど、彼の第二の指揮者人生は益々多忙を極めている。 |
| (社)全日本合唱連盟理事長[朝日新聞「ひと」欄記事]。(社)全日本合唱連盟関西支部支部長。京都府合唱連盟理事長。日本合唱指揮者協会会員。国民文化祭実行委員会委員。住友金属混声合唱団音楽監督・首席指揮者。同志社混声合唱団こまくさ音楽総監督。大阪大学男声合唱団技術顧問。法政大学アカデミー合唱団指揮者。女声合唱団かがやき顧問。NHK京都文化センター講師。合唱団京都エコー団長・音楽総監督・常任指揮者。 個人賞に、京都市民文化活動に対する感謝状('68)、コンクール大賞受賞指揮者賞としてのコーラス・オブ・ザ・ワールド賞(世界一周航空券/'82)、全日本合唱コンクール10年連続金賞受賞指揮者特別表彰('89)、藤堂音楽賞('90)、京都市芸術功労賞('91)などがある。 |